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阿弥陀如来 |
阿弥陀如来、阿弥陀仏を簡略にいった言葉です。阿弥陀仏とは、限りない光と限りない命をもった仏さまのことで、無量光仏とも無量寿仏とも、また不可思議光如来、盡十方無碍光如来ともいいます。この無量寿(限りない命)、無量光(限りない光)という無限のはたらき(慈悲と智慧)をもった阿弥陀さまは、一切の衆生、生きとしし生けるものすべてを救う仏さまであります。 |
異安心 |
異安心(いあんじん)とは、字面からもわかるとおり、誤解して勝手に安心することである。例えて言えば、暗い道路を歩いていて、前に明るい灯が見えた。「ああよかった、(暗いから)灯があって助かった」と思ってそちらに向かって走りだすと、それは自動車のヘッドライトであったとでも言おうか。結局轢かれてしまって交通事故死、という結末になる。
浄土真宗の教えでこの異安心が問題となる最たるものは、「悪人正機説」である。悪人だって極楽往生できるのであれば、悪人になってやろうじゃないか、人殺し、盗み、強姦何でもござれ、とばかりに悪行三昧。これはまさに「異安心」である。 |
縁起(えんぎ) |
すべてのものには、必ずそれを生んだ因と縁とがあり、それを因縁生起=縁起というのです。現実には、因と縁と果とが複雑に関係しあい影響しあって、もちつもたれつの状態をつくっています。『阿含経』に「これある故にかれあり、これ起こる故にかれ起こる、これ無き故にかれ無く、これ滅する故にかれ滅す」とあります。 |
往生 |
仏の国(阿弥陀如来の浄土)に生まれさせていただくことを、往生といいます。お念仏もろとも、往生浄土の道を歩ませていただきましょう。 |
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空(くう) |
存在するものには、実体・我がないと考える思想である。すべてのものは相縁り、相起こって存在するにすぎないから、実体として不変な自我がその中に存在する筈がない。
したがって実体ありととらわれてはならないし、存在しないととらわれてもならないわけである。すべてのものは、人もその他の存在も相対的な関係にあり、1つの存在や主義にとらわれたり、絶対視したりしてはならない。般若経系統の思想の根本とされる。 |
結婚 |
古来、女体は汚らわしいものとして、僧侶が接触することはもちろん許されず、しかも女人自体、極楽往生できるわけがないと考えられてきた。しかし親鸞聖人は、この考え方に常に疑問を持ち、その疑問、苦悶を解くきっかけを求めておられた。人間は、生き物は皆女体から生まれる。僧侶だけが極楽往生できて、一般庶民ができないというのであれば何のための宗教か。
宗教は一部の特権階級だけのものではなく、すべての人に降り注ぐ太陽でなければならないはずだ。この難題を、俗に「観音菩薩の夢告」と呼ばれる京都六角堂での出来事をきっかけにして、親鸞聖人は、妻帯は決していかがわしいものではないとの思いを強くされ、解決されたのである。
初めて妻帯した僧侶として、親鸞聖人は「破戒坊主(戒律を守らぬどうしようもない僧侶)」と旧来の仏教界から批判されながらも信念を貫き、「妻帯結構、女人も信心によって極楽往生できる」と説き、現在のように庶民に最も親しまれている宗派の一つとしての浄土真宗の礎を築いていかれた。
なお補足しておくが、日本における仏教の宗派は、現在ほとんど妻帯を禁じていない。 |
解脱(げだつ) |
文字どおりに、この輪廻転生する迷いの世界という縛から解き離れて、涅槃とよばれるさとりの境地へと脱出することである。
そして、この迷いの世界から脱出して、永遠にさとりの状態にとどまるものが、「仏陀」であり、そこでは一切の縛すなわち煩悩から離れているので、自由自在なのである。 |
業(ごう) |
本来の意味は行為ということであるが、因果関係と結合して、行為のもたらす結果としての潜在的な力とみなされている。つまりわれわれの行為は必ず善悪・苦楽の果報をもたらすから、その影響力が業と考えられるに至っている。善い行為を繰り返し、積み重ねれば、その影響力が未来に及んで作用すると考えられている。なお業には、身・口・意の3種の行為があるとされる。 |
御文章
(ごぶんしょう) |
本願寺八世蓮如上人が門徒に書き与えた消息体(書簡形式)の法語で、真宗のみ教えの要義や信仰のあり方をわかりやすく平易に説き、真宗の普及に果たした役割は大きい。現在でも勤行や説教・法話の後などに読まれている。本願寺派では「御文章」と呼び、大谷派では「御文」(おふみ)と呼ぶ。 |
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出家 (しゅっけ) |
家庭生活を捨離して、専ら道の修行を行うこと。またその実践者をいう。インドでは修道のために家庭を出て、宗教的実践の生活に入ることが、ごく普通のこととされていて、釈尊もそれに従って出家し、沙門(バラモン以外の修行者)となり、遂に悟りを開いて仏陀となり、仏教の開祖となった。在家信者に対して、出家修行者をはっきり区別する仏教教団の伝統は、日本では厳格とはいい難い。 |
諸行無常
(しょぎょうむじょう) |
この世のいっさいのものごとは、変転きわまりなく、不変なもの、常なるものなど存在しないということ。
◎仏教の根本的理念を表すことばとして知られる。
〔出典〕涅槃経(ねはんぎょう) |
信心 |
阿弥陀如来のお慈悲を素直に信じて、疑わない心を信心といいます。この信心は、阿弥陀如来から与えられるもの(本願力回向)で、仏心そのものであり、この他力の信心をいただいた人は、お念仏とともに明るく生き抜くことができます。
浄土真宗の信心は、「必ずおまえを救うぞ」という阿弥陀如来の願いをそのままに、疑いなくいただくことであります。阿弥陀如来より与えられる信心が、我が身にいただけ私の信心となるということには、私がつくるという自力の信ではなく、仏さまの願い(願行)がそのまま私の信心になるということです。
親鸞聖人の書簡を収録した「末燈鈔」にも「信心さだまるときに往生またさだまるなり」とあり、浄土往生の要因はこの信心こそが正因であるとします。 |
慈悲(じひ) |
仏教におけるもっとも基本的な倫理項目で、「慈」とは相手に楽しみを与えること、「悲」とは相手から苦しみを抜き去ることである。これを体得して、対象を差別せずに慈悲をかけるものが(覚者)すなわち仏であり、それを象徴的に表現したものが、観音・地蔵の両菩薩である。やさしくいうと、慈悲とは「相手と共に喜び、共に悲しんであげる」ということになる。 |
浄土三部経 |
親鸞聖人が最も大切にされた仏説無量寿経(大経)、仏説観無量寿経(観経)、仏説阿弥陀経(小経)の三つの経典を浄土三部経といいます。浄土真宗の所依の経典は、この浄土三部経です。 |
浄土真宗
(本願寺派) |
親鸞聖人が開かれた往生浄土の真実の教えを浄土真宗といい、浄土真宗は、私たちの宗派の正式の名称です。本願寺派には、1万300余の寺院があり、1000万人の門信徒がいます。
浄土真宗の教えは、親鸞聖人の主著である「顕浄土真実教行証文類(教行信証ともご本典とも呼ぶ)」に説かれてありますが、ひとことで言うならば「本願を信じ念仏もうさば仏になる」(歎異抄)ということができます。親鸞聖人が私たちにお教え下さった浄土真宗のみ教えは、「阿弥陀さまのご本願を信じ、お念仏もうして、仏になる」というお念仏のみ教えです。 |
摂取不捨 |
おさめとって決して捨てることがないという意味で、阿弥陀如来の救いについて表現される用語です |
善知識
(ぜんぢしき) |
正しい教えを説いて、正しい道(仏道)に入らしめる人のこと。阿弥陀仏をあてたよりにせよという道を知らせてくれた使いの人。ただし、領解文の「次第相承の善知識」とは歴代の宗主のこと。 |
造悪無碍 |
悪人正機の教えを誤って理解し、どんなに悪を造っても往生には障りがないという誤った信心のありかたをいいます。 |
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法(ダルマ) |
さとれるものである「仏陀」によって説かれた「真実の教え」ということで、その具体的な内容は、三蔵とよばれる、経(仏の説かれた教え)・律(仏の定めた日常規則)・論(経と律とに対する解釈や注釈)の三種の聖典である。これは、覚者である「仏陀」・仏教徒の集まりである「僧伽」と共に、仏教の基本的なよりどころである三宝をなしている。 |
智慧
(ちえ/般若・はんにゃ) |
普通に使われている「知恵」とは区別して、わざわざ仏教では「般若」の漢訳としてこの言葉を用いているが、正邪を区別する正しい判断力のことで、これを完全に備えたものが「仏陀」である。単なる知識ではなく、あらゆる現象の背後に存在する真実の姿を見ぬくことのできるもので、これを得てさとりの境地に達するための実践を「般若波羅蜜」という。 |
中道
(ちゅうどう) |
偏見を離れた中正の道をいう。仏教の立場を指していう。したがって仏教のそれぞれの流れでは、中道の思想は尊重され、高揚されてきた。中間の道という意味ではなく、とらわれを離れ、公平に現実を徹見する立場を形容していうわけだが、その内容は両極端を否定し、止揚する思想として表われてくる。例えば有・無の両極端、断・常の二見を否定する立場となる。一種の弁証法哲学といえないこともない。 |
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西本願寺・東本願寺 |
本願寺が東西に分かれるきっかけは四百年前に逆上ります。日本中が激しい領土争いにゆれていた戦国時代には本願寺もその時代のうねりから無関係ではいられませんでした。当時の本願寺は農民層を中心にかなりの社会的勢力を誇り、有カな戦国大名と同等の力を有していましたので、その存在は、天下統一をめざす織田信長にとっては放置しておけないものでありました。また石山本願寺のあった大阪(現在の大阪城の場所)は、信長が中国、四国、九州へ勢力を拡大する上からも戦略的に必要な土地でありました。そして1570年に、本願寺と信長は戦いをはじめました。これが最大の一向一揆でもある石山戦争です。戦いは10年にわたり、ついに1580年、当時の本願寺宗主である顕如上人は、信長との和議を結び石山本願寺を明け渡すことを受けいれ本願寺を退出しましたが、ここで顕如上人の長男である教如上人は和議を拒否する姿勢を示し、徹底抗戦を支持する門徒とともに本願寺に残り戦い続けましたが4ヵ月後にはカ尽きて教如上人も退出を余儀なくされました。この時の姿勢の違いが、のちに本願寺が東西に分派する要因となっています。その後天下を統一した秀吉は、1591年、本願寺の京都移転を決め、京都六条に土地を寄進しました。これが現在の西本願寺(本願寺派)であります。移転の翌年、顕如上人が亡くなると継職をめぐって教団内部の顕如派と教如派(石山戦争時の和睦派と徹底抗戦派)の対立が表面化し、秀吉は長男の教如上人を隠居させ、本願寺は顕如上人の三男である准如上人が継ぐことになりました。 秀吉の没後、教如上人は徳川家康と親しくなり、やがて家康は天下を統一した後、1602年に教如上人に京都烏丸七条に寺地を寄進し一寺を建立させた。これが現在の東本願寺(大谷派)のおこりである。家康の寺地寄進の理由は、本願寺を弱体化させるためだったという説や教如上人への同情からだったという説などさまざまな説がありますが定かではありません。
現在、真宗には浄土真宗本願寺派、真宗大谷派の他に真宗高田派、真宗仏光寺派、真宗興正派、真宗木辺派、真宗出雲路派、真宗誠照寺派、真宗三門徒派、真宗山元派がある。親鸞聖人のお弟子たちがそれぞれの土地で御同朋として育てられる中で、伝道方法などに特色を見せながら成立・発展したこれら十派は、現在は真宗教団連合を結成して、教学面などで互いに学びあいながら交流し、共にみ教えを伝えるために協カ関係を作っている。 |
人間 |
人間という言葉は、本来仏教語。畜生や餓鬼などいくつかの世界に分けた世界観のなかで、まさしく人が生活している世界が人間界であり、そこで生活しているものを人間という。 |
涅槃(ねはん) |
梵語の「吹き消す」という意味の、ニルヴァーナという単語の漢音写で、「滅」・「滅度」・「寂滅」などと訳される。
丁度ローソクの火を吹き消すように、欲望の火を吹き消したものが到達する境地で、これに到達することを「入涅槃」といい、達したものを「仏陀」とよぶ。釈迦牟尼仏が亡くなった瞬間を「入涅槃」ということもあるが、肉体が滅びたときに完全に煩悩の火が消える、という考え方からで、普通は、35歳で仏になったときに「涅槃」の状態に達したと考えられている。 |
念仏
(南無阿弥陀仏) |
仏(阿弥陀如来)のみ名を称えることを称名念仏、略して念仏といいます。阿弥陀仏の私たちを救わずにはおかないというお心そのままが「南無阿弥陀仏」の六字の名号にそなわっています。み仏のお慈悲につつまれて生き、み仏に救われて仏の国(浄土)に生まれることを喜び、お念仏いたしましょう |
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波羅蜜
(はらみつ) |
パーラミターという梵語の漢音写で、「度」とか「到彼岸」と訳される。此の迷いの岸である現実の世界から彼のさとりの岸である仏の世界へと渡してくれる実践行のことで、普通六波羅蜜といって、六種類があげられる。六とは、布施・持戒・忍辱・精進・禅 定・智 慧のことで、日本では、春秋の「彼岸」とよばれる行事は、これらを実 践するということから名づけられたのである。 |
百八煩悩
(ひゃくはちぼんのう) |
人間の迷いのもとになる百八つの煩悩を言う仏教のことば。
◎一説に、眼・鼻・耳・舌・身・意の六根にそれぞれ苦・楽・不苦楽の三種があり、この十八種類にまたそれぞれ貧・不貧の二種類が加わり、さらにこの三十六種類を過去・現在・未来に配して合計百八と数えたものとされる。
〔出典〕大智度論
〔例〕「百八のうち五六十嫁のこと」(古川柳) |
仏
(ぶつ/仏陀・ぶっだ) |
梵語の「さとれるもの」という意味の単語を漢字に音写したものが「仏陀」で、その省略が「仏(ぶつ)」であり「ほとけ」とも読ませる。普通「覚者」・「正覚者」と漢訳され、もともとは、仏教の創始者である「釈迦牟尼仏(ゴータマ・シッダールタ)」を指した。仏教の目的は、各人がこの「仏」の状態に到達することで、その手段や期間等の違いによって宗派が分かれている。
大乗仏教の場合、歴史上の仏である釈迦牟尼仏の背後に、種々な永遠の仏の存在が説かれるようになる。
例えば、阿弥陀仏・大日如来・毘盧舎那仏・薬師如来・久遠実成の釈迦牟尼仏といった仏が、各宗派の崇拝の対象とか教主として説かれている。
なお日本では、死者のことを「ほとけ」とよぶが、これは浄土教の「往生成仏」思想の影響で、死者が浄土に生まれ、そこで「仏」になるという信仰に由来する。 |
仏性
(ぶっしょう) |
「仏になる種子」といったもので、あらゆる存在にこれを認めるところに仏教の特徴がある。「覚りに達する潜在力・可能性」といってもよい。又、「仏心」といってもよいが、「一切衆生悉有仏性」という句にも表われているように、すべての存在に、差別しないでこの仏性を認めたところに、仏教の平等説の立場が見られる。この内在する仏性を外に現わしたものを「仏」とよぶ。 |
報謝 |
報謝とは、報恩・感謝のことです。私たちは、み仏のご恩、親の恩、人々やすべてのものから受けるご恩を感謝し、そのご恩に報いる気持ちを忘れてはなりません。 |
法難 |
仏教が国教であった時代は、新興宗教に対する守旧派仏教の弾圧は厳しいものであった。特に浄土教に対する弾圧は熾烈を極め、法然一派には斬罪も含め多くの者が罪人となった。親鸞は、法然とともに流罪となり、法然は中国方面へ親鸞は上越方面へ還俗のうえ流された。「法難」という語は一般には宗教的な原因に基づく困難のことを指し、例えば、仏光寺派中興の祖の了源上人がその勢いを嫉まれて族に襲われ殺されたことも法難というが、浄土真宗の歴史の中で最も大きな法難は親鸞聖人の流罪である。しかし流罪がなければこれほどまでの大教団には発展しなかったかもしれない。 |
菩薩(ぼさつ) |
元来、釈尊の成道以前の修行時代を指す。悟りを求める人という意味である。大乗仏教が興起してからは、拡大解釈されて、大乗仏教徒を指すことになる。向上的には仏の悟りを目指しつつ、向下的にはすべての人びとを同様に仏の悟りへと導こうと努力する人間像を菩薩とよぶようになる。さらに仏の慈悲や智慧の働きの一部分をにない、仏の補佐役として人びとの悩みに応じて現われる、観音とか地蔵のような威神力のある救い手もそうよばれる。 |
本願 |
善人(自分一人の力でこの世を渡っていけると思っている人)も悪人(そうでない人)も、一切の生きとし生けるものを救済して、仏の国(浄土)に生まれさせようという阿弥陀如来のお誓いのことを本願といいます。親鸞聖人は、阿弥陀さまがまだ法蔵菩薩として修行されていたときに立てられた四十八の願いのうちで第十八番目の願いが、私たちのために立てられた真実の願い(本願)であるといただかれました。 |
本願力 |
親鸞聖人の主著である「顕浄土真実教行証文類(教行信証)」行巻に「他力というは如来の本願力なり」とありますように、阿弥陀如来が私たちを救済するはたらき(本願力)を他力といいます。決して、他人の力をあてにすることではありません。 |
煩悩(ぼんのう) |
悟りの実現を妨げる人間の精神作用のすべてを指していう。人間の生存に直結する多くの欲望は身体や心を悩まし、かき乱し、煩わせる。その根元は我欲・我執であり、生命力そのものに根ざしているともいえる。貪り、瞋り、愚かさがその根本であり、派生して多くの煩悩が数えられる。これらは悟りの実現に障害となるから、修道の過程で滅ぼさなければならないとする。
しかし生命力に直結しているものを否定できないとして、悟りへの跳躍台として肯定する思想もある。 |
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末寺 |
浄土真宗では、そのトップに位置するものを本山(仏光寺派の本山は京都市下京区の仏光寺)と言い、その宗派に属する寺のうち、本山直属でない一般的な寺のことを末寺という。本社に対する支店のようなものであるが、場合によっては代理店といった方がいいかもしれない。すなわち、本山とは別個に法人格を有する。 |
無我(むが) |
仏教の最も基本的な教義の1つで「この世界のすべての存在や現象には、とらえられるべき実体はない」ということである。それまでのインドの宗教が、個々の存在の実体としての「我」を説いてきたのに対し、諸行無常を主張した仏教が、「永遠の存在ではあり得ないこの世の存在や現象に実体があるわけはない」と説いたのは当然である。なお「我」は他宗教でいう霊魂にあたるといえる。 |
無常(むじょう) |
あらゆる存在が生滅変化してうつり変わり、同じ状態には止まっていないことをいう。仏教の他宗教と異なる思想的立場を明示する1つである。あらゆるものは、生まれ、持続し、変化し、やがて滅びるという4つの段階を示すから、それを観察して「苦」であると宗教的反省の契機とすることが大切である。これもいろいろな学派の立場から、形而上学的な分析がなされてきたが、単なるペシミズム、ニヒリズムの暗い面のみを強調してはならない。生成発展も無常の一面だからである。 |
無常迅速
(むじょうじんそく) |
人の世は移り変わりが激しく、月日はまたたく間に過ぎ去り、死もたちまちのうちにやってくるということ。
〔出典〕伝灯録 |
無明(むみょう) |
正しい智慧のない状態をいう。迷いの根本である無知を指す。その心理作用が愚痴であるという。学派によって分析、解釈はさまざまであるが、いずれも根源的な、煩悩を煩悩たらしめる原動力のようなものと把えられている。したがって、例えばあらゆる存在の因果を12段階に説明する十二因縁説では、最初に無明があると設定しているくらいである。生存の欲望の盲目的な意志と把えてもよいであろう。 |
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唯識(ゆいしき) |
この世のあらゆる存在と現象とは、人間の「こころ」から生まれたもので、実際にあるのは、この「こころ」だけなのだ、という説で、大乗仏教の中に現われたもの。即ち、眼耳鼻舌身意という6つの感覚器官がそれぞれの対象を認識する6つの識のほかに、第7、第8(阿頼耶識)の2識をたて、これら8つの識の動きが、この世に存在や現象を生じさせているとするのである。 |
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輪廻(りんね) |
過去世から現在世へ、更に未来世へと、生まれ変わり死に変わることを、輪がまわるのにたとえたもので、輪廻転生という言葉もある。人間が、この迷いの世界からさとりの世界へと脱出しない限り、地獄・餓鬼・畜生の三悪道や、それに阿修羅・人間・天上を加えた六道の世界への転生を永遠に繰り返すのである。この輪廻の輪から抜け出たものが、「仏陀」とよばれる。 |
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和讃 |
親鸞聖人は、経典や仏教に関する思想家の言いたいことを、どのようにすれば庶民に伝えられるのかと思い悩んだ。そんなときに思いついたのが、農民達が農作業をしながら口ずさむ歌であった。歌の調子にして、ごく分かりやすい文章で、仏の教えを説こうとした。それが和讃である。かなりの数の和讃が確認されているが、4つの句からなり、原則として各句が12語からなる。有名なものとしては「如来大悲の恩徳は 身を粉にしても報ずべし 師主知識の恩徳も 骨を砕きても謝すべし」というのがあって、真宗では最も尊重される和讃である。 |
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